地下足袋山中考 NO16

<赤水渓谷の今昔A 湯治場街道は天国の散歩道だった>

同年1010日に訪れた錦秋の渓谷は、想像を超えた錦絵の世界だった。岩肌を飾るモザイク状の灌木林は幽谷を埋め尽くすサンゴ礁に等しい。尾根筋のキタゴヨウやネズコの針葉樹はその蒼さを際立たせ、音符状の連なりはハーモニーを奏でるが如くだ。カモシカが岩棚でじっと窺っていた。産卵期が近い岩魚が尾びれを叩き浅瀬を走った。ここは「天国の散歩道」なのでは、と錯覚を覚えた▲人は、感動体験を他人に伝えたい衝動に駆られるものだ。この渓谷美を紹介するため、多くの知人友人、マスコミ関係者を案内し観察会を実施してきた。25年が経過した今日、シャワートレッカーが訪れ、旅行エージェントもツアーを組むに至った▲渓谷に入ると最初の案内は、この沢筋がかつて玉川温泉への湯治場ルートであったことを話す。父から受け売りの紹介は、朝一番に阿仁前田の貯木場から森林軌道車に乗り湯ノ岱(現森吉山荘)で降りる。森林軌道敷をひたすら歩きノロ川経由でゼンマイ小屋などがあった桃洞・赤水分岐に至る。ここから沢歩きと尾根歩きを選択する。水量が多い日は、赤水と粒様を分ける尾根筋を選択した。ネズコ、キタゴヨウ、ミズナラ、ブナが群立する巨木の森を抜け九階滝を眺め赤水峠に向かったという。赤水峠は奥阿仁との合流点で、今でも往時の記念の刻印がブナの樹幹に彫り込まれている。古いものは明治、大正、昭和初期の年月日と集落名を鮮明に残す。大正15年 浦田村 田中政吉。取鳥内一行12名などとある。温泉までは、現在の柳沢林道筋に沿った山道を通り、夕刻には温泉に到着したという▲8歳の時から10数回にわたり湯治に通ったという加賀谷昭一氏(元阿仁山岳会長 現阿仁水無在住78)によれば、奥阿仁からも、打当集落から中ノ又渓谷の山道を辿り、同じく赤水峠を経由し現在の玉川中和処理施設周辺を通り温泉に辿り着いたという。いずれも戦前の話である。▲田植えが終わった土用の頃、一週間分のコメと味噌に身欠ニシンを持参、現地でタケノコを採り仕事から解放された自炊生活を楽しんだ。湯治場には多くの行商人が馬で物資を運び入れ、鹿角、田沢湖、森吉、阿仁方面からの湯治客に日用雑貨や食糧品を販売し、賑やかな交流会場であったという。雑沓から離れ、ゆっくりと湯に浸かる現代版の離雑湯(リゾート)は昔からあったのだ。戦後は、拡大造林計画が進められ、森林軌道からトラック輸送に移行し交通事情が整うにつれ、湯治場街道の軌道敷きは途絶え歩道も衰退したが、今もその痕跡はしっかりと残している▲源流部を詰め、赤水峠を経由し新玉川温泉に至る現代版シャワートレッキングは、新たな価値を付加した赤水渓谷の魅力と存在を確かなものにしている。

<遊漁禁止区域の指定> 平成に入ると渓流釣りがアウトドアーのトレンドとなり、赤水渓谷にも多くの都会派釣キチ三平が入るようになった。年々、魚影が薄くなることに危機感を覚えた私たちは、赤水渓谷を釣り場から観る岩魚の聖域づくりに動いた。遊漁禁止区域の指定には漁業権設定による規制が必要だったため、奥森吉の源流部の遊漁禁止を求める要望書を阿仁川漁業協同組に提出(1993.H5)した。当時、阿仁川漁業協同組合長であった、森吉町長の松橋久太郎氏のご尽力により、平成6年から岩魚の原種保護を目的に(奥森吉はノロ川橋から上流のノロ川、桃洞渓谷、赤水渓谷。奥阿仁は岩井ノ又沢、中ノ又渓谷、立又渓谷)遊漁禁止区域が指定された。

2010.9.15)<次号につづく>